続、マンデラ効果

 自分とこのブログの読まれてる記事ランキングをふと見てたら、過去の『マンデラ効果とオーストラリア』という記事が何故か一位になっていた。

https://shmykchang.hatenablog.com/entry/2019/10/24/232057

 

まあ、元々読む方の少ない閑散としたブログだからね。(とはいえ、読んでくださっている皆様、ありがとうございます!)

 

 そもそも母数たかが知れてる中での一位だけど、仮にGoogleティーチャーの『検索』ワードランキングで調べてみたらどないやろ?と思って調べてみたら。

 

 確かに、同義語の『マンデラエフェクト』でいえば、7月の5日週のどん底から、翌々週突き抜けて一気にあがっている。(とはいえこれも母数などがよくわからないが)

 

 うん、ただ、そのあたりになにかあったんだろうな。

 ニュースとか他のメディアで取り上げたとか?

 有名人が発言したとか?

 

 そうでなければ、なんらかのマンデラエフェクトに関連することが、、、、、、起こった???

(実はそうであってほしいというワクワク)

 

 

 まあ、わからんけどね。f:id:shmykchang:20200817222311p:image
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生きるってエネルギーの循環、等価交換。

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 某鋼の錬金術師で『等価交換』という言葉を使っているけど。

 これは真実だという気がする。

 

 何かを得るためにはそれ相応の対価を差し出す必要がある。仮にそれが成り立たないように見えるのは時間差や環境、という現実世界の枠があるから。

 

が。精神世界は無限である。

 

 だから、現実的に差し出すのもなしではないのだけど、、、、本来は精神つまり自分の意識のエネルギーを回す総量によって、対価も大きく変わるんじゃないかと。

 そしてそれを例える一つの言葉として『利他』や『利己』があったり。

 

 一年ほど前に師より

『本当の意味での因果の法則』についてレクチャーを受け、大きなインパクトを受けた。たまにそのときの動画を聴き返す。

 

 内容については触れないけど、法則にも関連するがやはり本質はエネルギーのやりとりなのだ。

 

 

 

 

業務改善、と違和感の正体

 4月からの仕事における業務習得が一通り落ち着いたので。

 時間があるときには、現状における自分の業務のマニュアルを作成している。

 

 これにはいくつか理由があり、箇条書きにするならばたとえば以下のような感じ。

 

●業務を可視化、言語化し俯瞰することで、改善、効率化に繋げていく為。

 

●業務の一般化。上とも関係するが、なるべく誰でもできる、あるいは素早く習得できるようにする為。

 

そもそも、私の引き継いだ業務はよくも悪くも前任者の方(けっこう前に退職されている)が作り上げたもの。

 その方の努力と工夫には敬意を払いつつ(これは本当に思う)、ただしなるべくわかりやすくしていかないと、と思うし、入社面談時に社長もそのことについて触れていた。

 

 こちらはこちらで長期的にやってこうと思っている。

 

 また、事務仕事で実感するのは、

 

 たとえばパソコンの使い方を変える(ショートカットキーの多用やフォルダの使い方)とか、表計算ソフトの便利な使い方を覚える(関数を使うとか)、という工夫改善だけでも結構ミスが減り、効率がよくなることがあるということだ。

 たとえば、何人かの同年代の同僚で使う共有の表計算ソフトのファイルで関数を仕込んで便利にしたことで、ちょっと喜ばれたりもしている。

 

 (一方で、職場の管理職の方がパソコンの操作を知らずにものすごく労力を使う作業をしてるのをみて唖然としたこともあったが)

 

 そんなこんなを経験すると、結局はいかに仕事のポイントを抑えるかが本質なんだな、と感じるようになってくる。

 事務作業であればミスなく効率よく処理するために→ミスを防ぐパソコンの使い方を習得する、時間の使い方を変える、とか。

 

 そして、おそらくここからが核心なのだけど、、、、、弊社の職場でちゃんと5w1h思考、、でき、本質を抑えている上役は少ないのだろうと。

 たとえば目標設定の共有時における表現が漠然としており、さらに口頭ベースでも明確にきいたことがないのだ。だから、MBO的な目標を自分で立てるときにも違和感を覚えた。

(もっとも、これは上司が論理的思考に弱いのは前職でもあったことなので、慣れてはいるが)

 

 そっから振り返ってみれば職場は何故、何故と思うことだらけ。ある意味全員、思考ではなく空気や感覚で作業している感も否めない。

 

 果たしてこれでよいのだろうか?

 

 まあ、私は今あることに尽くす、算命学の実践、検証の場としてもここを選んだところもある。

 

 どうしていこうか。

keep in touchの重要性

 少し前に、学びの先輩より『keep in touchを大切に』というレクチャーをいただいた。

 具体的にはお世話になった方への義理を通す意味で、報告、連絡などを絶やしなさんな、ということだと理解している。

 

 そのことを思い出していたら、ふとある3名の方に連絡し忘れていた!!という考えが浮かび、即メールを送った。

 

 その3名とも、朝の勉強会に参加していた頃にお世話になった方々なのだけど。

 

 1人は色々世話を焼き、色んな場に招待していただいた、朝の会の幹部の方(前職時代のお客様にもなっていただいた)。

 また1人は、私が今の算命学の学びに至るきっかけを作ってくださった方(実はこの方も、前職でお客様になっていただいた)

 

 最後の1人は、最初の方の親族の方で、神社を紹介していただいた。

 

 思い出したら即実践。習慣としてこれも身につけていきたい。

 

 

 

 

鑑定依頼

 お盆最終2日は、連続で算命学の鑑定をさせていただくことに。

 

 昨日は元々別の件でのオンラインミーティングだったのだけど、先方がみて欲しい方がいる、ということで連れてきた後輩の方の命式を拝見。

 

 そして今日は勉強仲間(同期)からの依頼で、その方の知人の命式を拝見。

 非常にありがたいことに、今回は2件とも相手からご連絡、依頼をいただいての鑑定となった。(※学び中なので、金銭はいただいていない)

 

 この勉強を始めて2年ちょっと。

 元々ベースになる部分の知識?があったから他の同期仲間より勉強のしやすさはあったとはいえ、まだたかが2年。この学問の学徒としては多分赤子同然。

 いわゆる格法、局法すら身につけてない現時点での私の知識では将棋で言う金銀飛車角落ちみたいな感じも自分であるが。(かと言って、師匠を無視して先走って勝手に先の知識をつけるのも良くないのだ)

 

 それでも、今の精一杯の知識、自分なりの言葉でお伝えし、結果お二方に喜んでいただけたのは嬉しかった。

 

 最近になり気づいたのは、算命学の世界観を自分に落とし込んでいくにつれ、今までと別の感覚が湧いてくるのでは、と言うところ。

 

 ひょっとしたら半年後?1年後?あるいは3年後かはわからないが

 

 縁起、というやつで、算命学に関連する世界により関わっていきそうな予感もしている。

 

 そん時自分は何をしているんだろうなあ。

 

 

hspがクローズアップされている事について

 地元の本屋を見て気付いたのだが、いわゆるhsp、繊細さんの為の本が最近ちょっと目につくような気がする。

 

 いや、気がするというより、業界の戦略としてプッシュされてるのかもしれないが。

 

 たとえばマスク騒動しかり。日本人って周りをやたら気にしすぎる気質があるのかなあ、と最近思う。

 周りと同調すること。それは確かに日本の島国の住民の生きる術として身に付けるもの、かもしれない。

 ただ、もし日本人にhspやエンパスが多い所以が

その同調圧力に関するものからきてるならば。

 

 生きるために身につけた戦略がその人の首を締めているのだから皮肉である。

 

 あくまで上のは仮説だけど。

 

 

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 統計は見てないがhspやエンパスが今よりクローズアップされてる、のならば、

 

 それは、元々『繊細でない方の人間』も後天的に周りに対して敏感になりつつある証左なのかもしれない。

 

 たとえばあまりに大量の情報を処理しなければならなくなり、ストレスが溜まりやすくなったとか。

 

 世の中で煽られる不安により気持ちがかなり揺らいだりで自身も不安定になったりとか。

 

 昔から人は、得体もしれない恐怖に名前をつけることで、それに対する不安を和らげようとしてきた。

 

 科学の未発達な昔にあってはたとえば精霊、神、悪魔、妖怪、という風に。

 

 そして今は、それをストレス、病気、などとして合理的に『理解しようとする』。

 

 でも、そのような対峙の仕方は必ずしも正解なのか??

 対処療法か、根本療法かでいえば、対処療法じゃないのか??

 

 この世で自分に起きること。それが全て体験すること、という視点でみるならば。

 

 たとえば自分がhspだからこういう対処をする、、、だけでなく、もっと本質を見つめるところから

 

 全てが変わるような気がしてならない。

 

 

ONE PIECEと生年中殺

 

 そういやあ、漫画ONE PIECEって白髭やカイドウ、ドラゴン、ガープに象徴されるように、

やけに『父性』が際立つなあと思って、作者の尾田さんの生年月日から調べてみたら。

 

 ウィキで載ってる限りで『みるならば』いわゆる生年中殺もち。

 

 生年中殺は、親との縁に何かあるといわれていれけど。

 

 尾田さんは、その感覚があるからこそ、むしろ漫画に父性愛を投影させているのかなあと。

 

 どうだろう?