内省

ずっと前に先輩にご指摘いただき、ありがたいことに一昨日も、昨日も同門の先輩方に改めて同じご指摘をいただいた。

「考えすぎず、まず行動してみなさい!」

自分でもまったくもって「考えなしに」生きてきたつもりなのだけど、他の方からもよく考えすぎ、、、と言われるし、もはや証明されている。

自分の中だけでの思い込み。妄想、理想。環境ら自分の写し鏡。残酷なまでに自分自身の今を映し出してくれる。
いやいや、映し出してくれない?それは自分自身を知ろうとしていない、怠惰に身を任せてる、あるいは周囲世界からのメッセージをキャッチアップしてないということ。

必要なことは目の前にあったりする。

求めよ、さらば与えられん。

自身のやりきった「つもり」。頑張った「つもり」。でもそれは案外、お釈迦様の手の平の中でぐるぐる暴れまわってる孫悟空状態だけでしかなったりする。

よく、これを忘れる。忘れるというより、自分に落としこめていない。あるいは、これを身につけていくのも、今の自分のテーマなのかもしれない。

一般通念の社会は他者評価の世界。自己満足でも、自己陶酔でもない。

実力は、暗闇の嵐の海に一人放り出され、弱さをまず自覚し、揺さぶられ、波に着ぐるみをはがされ、ときに流されながらそれでも必死に泳いで目的の島へ突き進んでいく中でついていく。

今までぬるま湯の中にいたけど、変わりたいなら覚悟して腹を決めれるようになったら、思いっきり冬の海に飛び込めばいい。失敗しても命まで奪われることは(多分)ない。

体が弱い?頭が悪い?それは単なる自分の弱さ。守るための言い訳のときもある。
苦難続き、なのはハラが決まってないから。
まだまだレッスン中。

というわけで、非力な自分はまだ歩けるか。この世界は私を歩かせてくれるか。

言い訳ばかりして動けない自分を脱せるか。

記事はネットからの拾い物。

昔好きだった漫画、「ARMS」

またはこんな言葉も自分を支えてくれていた

人の足を止めるのは 絶望ではなく「諦観(あきらめ)」
人の足を進めるのは 希望ではなく「意志」

一時の絶望感や敗北感が、将来の勝利の美酒のツマミになるなら、それでもよい。

または、目の前洞窟の先が果てしなく続くとと薄々感じとっていても、本能的に進むべきとわかっていたら、躊躇なく歩んでみたらいい。

他者へではなく、自分への叱咤。