篩にかかる

篩 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/

 

 最近、師や兄弟子の先生方が『篩にかかる。かける』とおっしゃっていたのを、ふと思い出した。

 

 師のそれは、変化しない者は時代から、社会から落とされていくという文脈で。

 

 兄弟子の先生のそれは、まずは3年間、勉強を続けてこられておめでとうございます、という労いの中で(つまりは、まずはこの段階では学問から選ばれた、ということなのかもしれない)

 

 ふと、世の中の条理は須くこうなのかもしれないと感じた。

 

 選ばれる者の反対側には選ばれなかった者がいる。勝者がいれば敗者がいる。いわゆる優秀な者、という価値基準があるということはそうじゃない者、という概念が生じる。

 即ち陰があってこその陽。2つあっての構成される全体。

 

 たとえば以前。

 地元のある大手企業。仕事の取引先であり、そこで働く同級生何名かと話をしたり、状況をきいたことがあった。

 名前だけきけば優良企業。

 

 ただし、内実。

 30代に入る頃には段々と、出世組とそうでないヒラ組?に分かれていくようだった。

 そして、その出世組でさえ、最終的には本店、支社の数少ない上席の椅子を巡って篩にかかってしまう。

 ただし、偉くなる者がいるのは、偉くならないものがいる故のこと。

 

 そして。

 僕らは実は、社会の中で、職場で、人間関係で、常にどこか篩にかかっているのだろう。

 

 しかし陰陽があって一つなのだ。望む望まぬに関わらず、俗世にいる限りその輪の中にいるし、

 

 また、陽にいたはずが、陰にいつ落ちぬとも限らない。なぜなら陰と陽は循環するものだからだ。あるいは、同一人物の中で社会のあるコミュティーでは陽の動きをしていながら、同時に所属する別のグループでは陰、ということもあるかもしれない。

 

 つまるところ、篩にかかることはよいとしても。篩にかかろうがかかるまいが、そのときのその事象だけを見ていても、陰陽は流動的だから意味がない。

 

 最終的に、常いかなる時も自分自身は不変の何であるか。意味を成すのはそれだけだと思う。