御縁

どこでどんな人と出会ってどんな御縁が紡がれるのか、そのときになって蓋を開けてみないとわからない。

そのときどれだけ一緒に過ごしたとしても、あるときばっさりと切れる御縁もあるし、たとえ実際の対面が二
三回しかなくても、たとえ蜘蛛の糸一本レベルでも保たれている御縁もある。

 

 

4年前にたまたまオフ会で出会って、同郷出身者と知り、そのときにほんのちっちゃなお役立ちの為に引き受けた依頼(いうなれば占い)が、依頼された方にかなり大きな影響を与えていた。。。(多分、よい意味で)、と今日ご本人から久々のメールでフィードバックをいただいた。(海外に行っちゃったのもその影響らしい)
嬉しいというよりむしろびっくり。そもそも何を言ったかまであまり覚えてないし。。。。

また、むしろその方からも、ものすごく励まされる言葉、どんぴしゃのアドバイスをいただいて嬉しく、なんのタイミングだ?!とも思ったり。

日々のどんな言葉、行動が人に影響を与えるか、図りしれない、だからこそ、日々かける言葉には注意を払わないといけないし、在り方、行動には気をつけないといけない。

そこ[底]に降りる必要があったから降りただけ

  諸々の事情で会社を退職することになり今色々振り返っている。

    ただひとつ思えたのは、これが不可抗力であったにせよ自分のせいだったにせよ、起こるべくして起こったんだな、ということ。

 

 というか、さらに実感したのは、物事には陽の現象もあれば陰の現象もあるけど、実のところそこに吉や凶をすぐに判断するのは、短絡的だなということ。

 

 意味があって起こる。それでよい。

ターニングポイントってか

  いわゆる幽霊がみえる、とかの「霊感」は持ち合わせていないのだけど、たまに何かみえることはある。

 (カナダに行ったとき、金色の小人が肩に乗っていたとか、倒れて一ヶ月入院する前に、死神みたいなのがみえたとか)。これは単なる幻想かもしれないし、ほんとかもしれないし、でも、どっちでもいい。

 

 多分、もっと感度をよくすればもっと色々みえるのだろうけど、それはそれで生きづらくなりそうなので、あえて今は鍛えていない。

 

 (人をみていてたまに予感があたることとかはたまにある。あんま人に言わないけど)。

 

 で。だ。

 

 さっき自分が寝転がっているときに、ふと腹の上をみたら、一メートルくらいの黒龍がいるような気がした。した、というか今ものっている。別に悪いもんじゃないと思うので、追っ払わない。むしろ守ってくれるようだ。龍なのに、なんか飼い猫の黒猫みたいに毛がふさふさして、腹から胸の上に乗って眠そうにしている。。。。。。。ひとなつっこい猫かよ(;゜0゜)

 

 とりあえず、黒龍でぐぐってみたところ色々意味はあるが、しっくりきたのが「新鮮な風を呼び込んでくれる」ものらしい。何者もとい、何龍なんだ??

  

  わからんけど、彼(彼女?)は何か呼び込んでくれるのだろうか。

 

 実はちょうど今ターニングポイント。

 

 がんばらなきゃね。

 

 

親父の33回忌と家系のあれこれ

 

 今日は親父の33回忌で、家族と、伯父伯母でお寺に行ってきた。そのあとランチ会。

  正直、親父は2歳と8ヶ月の頃に亡くなっているから、喪失感、に苛まれることはむしろこれまでなかった。(心理的な父性の欠如は別として)。ただ、過ごしたことは記憶に残っている。

 

 一応長男。今回のすべての段取りは母に任せてしまったのだが、本来は自分がやらなくてはならなかったなあ、と感じた。

 

 

  そのあとの食事会では、伯父から、今まで知らなかった先祖のことをいくつかきいた。

 

 私の曽祖父は明治時代の初め、地元の人が読み書き算盤を覚えることが大事だと感じ、周りの反対派の嫌がらせにあいながらも子供達が勉強できる場所を作った。それが、今の地域の公民館のはしりとなったこと。

 

 また、祖父の弟は、海軍に入り、最終的にその死に様が「軍神」として当時の新聞に大々的に報道されたような人になったこと。(すごいとか、かっこいいというよりは、悲惨だった)

 

 生きるってなんだろう?生ききるってなんだろう?改めてそう感じる。

 

  

雑記 努力とか。

周りをみていて感じることが、世の中は「一見理不尽」なのが世の常で、努力の絶対量が、常人の倍以上あったとしても、方向性が間違っていたり、タイミング、また環境によっては評価されない人も多々いたりするようだ。

また、逆に一見さほど努力しているように見えなくても、ポイントを押さえて要領よく行動し、評価者のみてないところでほどよく手を抜いているけど、意外に評価の高い人もいる。(そしてそれが世間でいう賢さなのかもしれない)。そんな人でも必死で陰で頑張っているかもしれないし、考えているかもしれないからどうこう、批判したいとかは思わない。

でも、神のいたずらか、努力をしていて認められない人、行動して失敗しやすい人。報われにくい人も、一見悲運の人は確かにいる。それはひとや環境のせいにしていて終わり、では何も生まれない。他責にしたからといって必ず誰かが助けてくれるわけでもない。自分の無知が招いた過ちはたいがい自分で拭うしか、ない。
人によっては、あと一歩のところでうまくいったのに、その手前でやめてしまって逃す魚も大きいかもしれない。あとちょっとの気付き、閃きがあれば、大きく飛躍できるかもしれない。。。。。絶対的なことはいえないけど、その見極めができなかった為に(あるいはそういうセンスがなかったために)惜しいところで終わった方がいたり、そういうケースもあるような気がする。

僕の周りには恵まれているような方もいれば、たとえば理不尽の中で地獄の底を這い上がってきたような過去を持つ人もいるけど、後者の方の立ち居振舞い、言動には多かれ少なかれ、間違いなくそれを経験したと思しき強さが宿っている。また。そしてそれでいても、愚痴をこぼさない。みせない。人のせいにしない。頑張ろうとする人を決して笑わないし、軽蔑しない。逆境をみた人はそんな人が多いのかもしれない。

そしてそんな方にこそ、魅力が生まれ、人が集まり、最終的に真の幸福や安寧がもたらされる。そう信じたい。

僕のただ、10分くらいで思いつくまま書いた暴論。

何か感覚を掴んだ、ストンと落ちた気のする昨日

  昨日は7月4日、いわば「何かが納まる日」っぽいのだけど。

 

 昨日の昼か夜か思い出せないけど、ある瞬間に、ここ最近の出来事が全て繋がって「あ、自分らしい自分の感覚はこれや!」みたいなのが急に降ってきた。

 

 で、それは一瞬でまた過ぎ去ってその感覚はほぼ忘れたのだけど、でも何かを掴んだような気もしなくない。

 

  とりあえず、自分の感覚を信じてみよう、信じ続けてみよう。そしたら道がさらにひらけてくるかもしれない。

周りを見ていておもうのですが、論理的な正しさ、「一般社会」でいうところの正しさ、自然法則のいう正しさは、やはりそれぞれ違うような体感がします。

 


 (自身の経験とか、身の回りでここ数年〜最近、色々あって感じたことです)  

 


   たとえ論理的には筋が通っていても、それが道を外れた行い(たとえば愛の鞭と称した体罰、暴力だったり)であれば、行った者は必ずどこかで淘汰されるし、あるいは一見損と思える行為でも、自然の理に適ったものであればそれなりのよい対価が得られる、のかと。

 


  この「道」や「自然の理」というのがまだまだ漠然として、よく分かっていないガキではありますが。。。。

 

  なんか、そういうものが存在しているんだなあ、、とフワっと感じるような感じないような。

 


  自分も道に沿って生きる者でありたいものです。